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⑤【老いと演劇】ワークショップ「いつか老いる自分にかける言葉、仕草、眼差しを問う」#ケア文0202

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第一回ケアの文化・芸術展の概要、感想・つぶやきのアーカイブ
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福祉と教育、どう応答していくのだろう?
福祉とアート/サイエンスへの好奇心の接続 トーク&セッション
▶︎⑤【老いと演劇】ワークショップ「いつか老いる自分にかける言葉、仕草、眼差しを問う」
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この記録は、2019年2月2日(土)「第一回ケアの文化・芸術展」のプログラム、【【老いと演劇】ワークショップ「いつか老いる自分にかける言葉、仕草、眼差しを問う」 】にて、語られたものを編集したものです。当日の様子を体験していただくため、出来るだけ口語表現にしています。

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語り手:
「老いと演劇」OiBokkeShi 菅原直樹氏

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ー今日は岡山県から来て頂いて、このワークショップをしていただくことになりました。どうぞよろしくお願いします。

菅原さん:よろしくお願いします。今日は岡山と鳥取の県境にある岡山県奈義町というところから来たんですけれども、そこで劇団を結成して活動しております。劇団の名前は「OiBokkeShi」【老い・ボケ・死】です。字面を見ればなんじゃこりゃという感じですが、意味が分かれば比較的覚えやすい名前なんじゃないかなと思います。

今日は前半に活動紹介させて頂いて、後半はワークショップを実施しようかなと思っています。今日は皆さん人数が多めなので、代表の方に出ていただいて実際にワークショップを体験していただきます。

僕は肩書きが俳優と介護福祉士です。10代20代は東京で俳優として活動して、20代の終わりに介護の世界に入ってきたんですね。実際に老人ホームで働き始めて、多くのお年寄りと接しているうちに、介護と演劇ってものすごく相性がいいということに気づいたんです。今日は、アートと介護が融合した活動の一つのとして、こんなことをやっているということをご紹介できたらと思います。

世間の多くの方にとって【老い・ボケ・死】というのはマイナスなイメージだと思います。できればを老いたくないし、できればボケたくないし、できれば死にたくない。僕もそう思ってました。でも、老人ホームで働き始めて多くのお年寄りと接しているうちに、【老い・ボケ・死】から得る大切なことがあるんだと気づきました。
僕は栃木出身でそれまで千葉で生活をしていたのですが、介護の仕事をするようになってから、縁もゆかりもない岡山に移住したり、そこで新たな劇団を立ち上げたりして、以前にも増してよりよく生きようという気持ちが湧いてきたんですね。

世間では【老い・ボケ・死】から目を向け目をそらす風潮があるんですけれども、老いの豊かな世界を、演劇などの芸術文化を通じて地域に発信することができたらと思っています。ゆくゆくは、地域の中で【老い・ボケ・死】というものを受け入れる文化を創出するお手伝いができたらなと思っています。

【お年寄りほどいい俳優はいない】と【介護者は俳優になった方がいい】。これを二つの軸として活動しています。

老人ホームで働き始めてからすぐに、お年寄りがゆっくり歩いている姿を見て、劇的な感動を覚えました。歩いているその姿に人生が滲み出ている気がしたんですね。僕は純粋に、俳優として負けたと思いました。

理学療法士の三好春樹さんがおっしゃっているんですけれど、「人は年をとると癖が煮詰まる。頑固な人はますます頑固になって、真面目な人はますます真面目になる。そして、スケベな人はますますスケベになる」。本当にそうだなと思いました。

僕が老人ホームで出会った方は、皆さん個性的な方ばかりでした。そして話を聞くと皆さん人生のストーリーを膨大に持ってるわけですね。つまり老人ホームには人生が詰まっている。お年寄りにゆっくりと舞台を歩いてもらって、その背後に人生のストーリーを字幕で流すだけで立派な演劇になるなと思いました。

老いと演劇のワークショップ、これは5年前に第1回目を開催しました。

介護のイメージには3Kと呼ばれるマイナスなイメージがありますよね。普通は3Kと言ったら、きたない、きつい、危険なんですけども、介護の場合は危険は、給料が低いなんですね。でも、僕は20代後半で介護の仕事をするようになってから、創造性が必要とされる、とても面白い仕事だなと思ったんですね。

なのでこのワークショップを通じて介護の楽しさ、介護の仕事が持つ創造性というものをお伝えできたらと思います。

2014年の6月に行ったワークショップが始まる1時間半前ぐらいに、あるおじいさんが受付にやってきたんですね。1時間半前ぐらいにおじいさんが来たので、あ、これはお客さんが(一階にある図書館と)間違えて上にきたのかなと思って図書館は一階ですよ、と声をかけました。すると、「あなたが菅原さんですね?新聞で見るよりいい男じゃな」と。聞けば、新聞の記事を読んで、岡山市から和気町まで電車に乗って1時間ぐらいかけてきてくれた方だった。年齢は88歳、認知症の妻を在宅で介護していると。

ワークショップは運動量が多く、後半はグループワークで芝居をつくるものだったので、88歳で耳が遠いおじいさんには見学を勧めたんですけれども、このおじいさん、自分の話を延々と続けて全く聞く耳を持たない。(一同笑)なので参加してくださいとお伝えして、始まりました。そしたら最後の芝居の発表で、この場にいた全員が驚いてしまったんです。このおじいさん、演技をするとですね、まさに水を得た魚だったんです。

このおじいさん(岡田さん)が
見事に演じている写真を映してくださいました。

演じながらちょこまかちょこまか動き回るので、私は介護福祉士ですから、いつ転ぶんだろうと気が気じゃなかった。そして、耳が遠かったはずなのに、芝居が始まると耳が良くなる。このおじいさんに、あなた何者ですか?と話を聞いたら、昔から芸事が好きで数々のオーディションを受けて受けてきた。著名な映画にもエキストラで出演したこともあると。

僕はワークショップが終わった後、このおじいさんの事が忘れられなかったんです。88歳で芸事が好きで、今介護をしている。まさに老いと演劇を体現していると。僕はどうにかしてこのおじいさんの電話番号を入手して、一週間後ぐらいに電話をしたんです。そしたら開口一番にこう言ったんです。「これはオーディションに受かったということですか?」それが岡田さんとの出会いです。今年で93歳です。

さて、どういう芝居を作るかということになり、岡田さんの家に通って話を聞きました。戦争の話、介護の話を聞いているうちに、「最近(認知症の)妻が外に出てしまって困っている」、いわゆる徘徊で困っているって言うんです。そこで、徘徊をテーマに選んで演劇を作ってみようと思ったんですね。徘徊に困っている岡田さんと一緒に徘徊とは何かっていうことを考えられたらと思ったのが、徘徊演劇「よみちにひはくれない」です。

徘徊演劇なので、岡山県和気町の商店街を舞台にして、屋外でやるんですけれども、お客さんか通行人か分からなくなるのでお客さんは[徘徊中]というパスをつけて・・・(一同笑)ストーリーは、20年ぶりに和気町に帰省してきた青年が駅の改札を出てロータリーに行くと、見覚えのあるおじいさんがいた。話しかけるとやっぱり昔可愛がってくれた近所のおじいさんだった。おじいさんが言うには妻が認知症を患って徘徊してしまっていると。青年は一緒に探すと言って、20年ぶりの変わり果てた商店街でおばあさんを探すというものです。

岡田さんは、舞台にかける情熱は熱いんですが、台詞を覚える情熱は一向にない。そこで思いついたのが、岡田さんがよくする話を台本に詰め込む。(一同笑)他の出演者は、商店街のみなさんです。ご自分の店でご自分の役をやってもらいました。時計屋さんは、いつもより1.5倍ぐらい堂々と接客されていました。

こういう芝居を作っていると、お客さんがは何が現実で、何か演技なのか分からなくなってくる。境界が曖昧になってくるんですね。町の音が演劇の BGM に思えてきたり、通行人が俳優に見えてきたりする。これはもしかして認知症の人が見ている世界に通ずるものがあるかもしれません。

(今度2月に再演する予定になっていますチケットは完売です)

次は「老人ハイスクール」ですね。学校が老人ホームになっているという設定です。これはですね、岡田さん次は何の役やりたいですか?ときいたら、ホームレスの役をやりたいと。なので、元ホームレスで老人ホームに入れられてしまって、部屋を用意される、食事を用意されるのが気に入らないので、中庭にダンボールで部屋を作るという役です。

第3作が 「BPSD ぼくのパパはサムライだから」これは在宅介護がテーマです。タイトルの「BPSD」というのは、認知症に伴う行動心理症状のことなんです。長年息子がお父さんを介護していて、このお父さんが夜中になると刀を振りかざす。これは”問題行動”なんですけれども、このお父さんの人生を紐解くと、元斬られ役俳優だった。だから夜中に刀を振り回すのは、介護者を困らすのではなくて、自分の活き活きしていた時代に戻っていっていただけだった。そうすると見え方関わり方が変わってきますよね。

押さえこむのではなくて、むしろこちらも刀を出して、斬ってやればいいわけです。そうすると見事な斬られ方をする。(一同笑)だからこその芝居では、「BPSD」は行動心理症状の略語ではなく、「ぼくの パパは サムライ だから」なんです。

最近行ったのは「カメラマンの変態」というタイトルです。ポートレイトを撮っていたカメラマンが脳梗塞を患ってから一切人を撮ろうとしなくなり、何もない空間ばかりを撮るようになった。なぜか介護職がオーストラリア人。これは老人ホームで二日間上演したので、そのうちの1日に岡田さんに会場の老人ホームに泊まってもらったんです。アーティストインレジデンスなのか、老人ホームお試し体験なのかよくわからない状態になりました。老人ホームの利用者の方にも受付を手伝ってもらいました。

老人ホームでお芝居をすることによって、地域の方に来ていただき、老いるとは何か、生きるとは何か、っていうことを考えてもらいたいなと。まさに今日の「第一回ケアの文化・芸術展」のテーマだと思いますが、ケアにまつわる文化拠点というものが、もっと出来ていっても面白いんじゃないかと思っています。

岡田さんは、現在進行中で俳優という役割を全うしてまして、最近言っているのは「舞台の上で死ねたら本望だ」と。僕みたいな若い俳優が言ったらそれだけ好きなんだと軽くあしらわれるかもしれないんですけれども、岡田さんはリアルな感じがするんでよね。(こちらもこちらで)どうすれば岡田さん、舞台の上で・・・なんて色々考えちゃう。

さらに岡田さんが言うのは「俳優に定年はない。歩けなくなったら車椅子、寝たきりになった時は寝たきりの役、死ぬ時は棺桶の役ができる。」自分は俳優と割り切ったら、そういった老いることの苦しみや悲しみを表現するという役割を持つことができる。俳優って面白いなと、岡田さんと出会うようになってから改めて思うようになりました。

では、ワークショップに移って行こうと思います。

このワークショップを通じて僕が言いたいことは、演劇にはまってもらうとか俳優になってもらいたいということではなくて、演劇のワークショップというのはコミュニケーションに意識的になれるツールなんじゃないかなということです。
演技しようと思うと、普段自分がどのように喋っているんだとか、どのように体を動かしているんだっていうことに意識的にならなければいけないんですね。ワークショップのテーマが「認知症」なので、今回のワークショップを通じて、認知症とのコミュニケーションに意識的になってもらえたらと思っています。

ここで、参加者全員が立って、「遊びリテーション」を行いました。

介護の現場で行われる遊びとリハビリテーションを一緒にした方法論。
認知症のお年寄りや障害を持ったお年寄りに
遊びを通じてリハビリテーションしてもらうという試みです。

このあと、前に5名の方に出てきていただき、
介護者の人・認知症の人を交互に演じながら
関わり方を感じていきました。

はい、ありがとうございました。少し解説です。今のゲームは、認知症の中核症状の一つ、見当識障害を疑似体験していただくゲームです。見当識障害とは、今がいつで、ここがどこで、目の前の人が誰なのか、それが分からなくなってくる症状なんです。
つまり、認知症の人は同じ場所にいながら別の世界を見ているかもしれない。それぞれ見ている世界が違うのでコミュニケーションが成立しないんですね。

じゃあ、その人の世界を無視して現実に引きずり込むのか、もしくはその人が見ている世界を尊重してどうにか現実との折り合いを見つけるか。どちらの関わり方をするかで、介護の雰囲気ってだいぶ変わるんじゃないかなと思います。

なぜそこまで認知症のぼけを受け入れなければならないんだ?と思われる方いらっしゃるかもしれません。

世の中には、正しいことがあって、間違ったことがあったら正さなければいけないという考え方ですね僕らが生きてる社会っていうのは進行主義によって支えられていて、”昨日よりも今日”、”今日も明日”と、人は成長しなければいけないという考え方。でも、老人ホームに足を踏み入れるとそんなものは妄想に過ぎないのかもしれない。人は老いて行くんですよね。だんだん出来なくなっていく存在でもあるわけです。

認知症というのは何が正しくて何が間違っているのか、その判断ができないくらい老い衰えてしまっている。その人に対して何かを正すっていうのは、おかしい光景に見えるなと思ったんです。
なぜそこまでして自然と老い衰えていくものを無理して成長させようとしているのか。成長させるべきという価値観とはまた違うのではないか。お年寄りって今この瞬間が一番いい状態なんですよね。明日はさらに老いてしまう、倒れてしまうかもしれない。今この瞬間を共に楽しまなくっていつ楽しむんだと思うんですね。

この感覚は僕は岡田さんと演劇をするようになってからすごく感じるようになりました。今年93歳なので、いつ何が起こるかわからないんですね。88歳から演劇作りを始めているんですけれども、毎回思うのが今回の作品が遺作になるんじゃないかなと思ったりするんです。そう思うと、目の前の岡田さんがいきなり輝きだしてくる。僕らは本番のために稽古をしているけれども、実は一回一回の稽古が大切なんだな。今この瞬間を楽しもうと思うわけです。

できなくなっていくことを指摘したりするんじゃなくて、介護者がボケを受け入れる演技をすることによって、ともに楽しい時間を過ごせそういうアプローチをすることが大切なんじゃないかなと思います。

僕はこういうワークショップ色いろいろなところで行っていますけれども、高齢者で認知症になったらおしまいだと思っている方も結構おられるんですね。

僕が思うのは、認知症であっても、つまり人格のコアとなる部分、人を思いやる気持ちはしっかり残っているわけです。しかし周りの人が関わり方を誤ると、その残っているものを踏みにじってしまうことがあるんですね。認知症の人は思いやる気持ちがあるから何か行動を起こすんだけれども、それが中核症状によっておかしなアウトプットになってしまうことがある。

例えば、傘を持って掃き掃除をしていたりとか、足取りがおぼつかないおばあさんがふらふらしながら、他の歩けないおばあさんが歩くのを助けている状況がある。忙しい職員が見ると、危ないでしょう!となるわけです。

しかしその行動にそのまま反応するのではなくて、その奥の気持ちを察することが大事なんじゃないかと思うんですね。
傘を持って掃き掃除をしているおばあさんを見つけたら、箒を持って「すみません、いつもありがとうございます。新しい箒があるので、これ試してもらっていいですかね」と箒を渡したり、「どうもお疲れ様です。僕休憩してたんで、この方が歩くのを助けるのを、僕が代わりますね」と言ったような関わり方をするようになれば、認知症の人の気持ちを受け取ることができるんじゃないかっていうことです。演技を通じて人と人が心を通わすことがあるんじゃないかと思います。

関わり方、考え方を変えることによって介護の役に立つこともあるんじゃないかなと思います。
認知症の人との関わりっていうのは仕事だけでなく地域だったり家庭でも出てくると思います。その時に、今日のワークショップの事や、岡田さんの姿を思い出していただけたらと思います。みなさん、ぜひ、今ここを共に楽しむ介護をしてください。

最後にお知らせです。僕が責任編集している、「ブリコラージュ」という雑誌があるので、よければ手にとってご覧ください。( Amazon では売っていません!)それから、2019年3月24日に、アーツ千代田3331で「おいおい、老い展」という展覧会の一環として、「ポータブルトイレットシアター」という劇を上映します。岡田さんもいらっしゃいますので興味持った方は是非お越しください。

今日はどうもありがとうございました。