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ほっちのロッヂのオープンは、「工夫と感性をもって土壌をつくりさえすれば、日常のなかで豊かなケアが自然発生する」ことを確かめる大実験の始まりなのではないでしょうか。 (東京大学 医学部 健康総合科学科 看護科学専修 木田)

2020年4月から順に、ほっちのロッヂの全ての事業が始まります。
この #ほっちのロッヂの始まりファンファーレ202004 は、ほっちのロッヂメンバと普段関わりがあり、それでいて、持論がピリっとおありの方々に、「ほっちのロッヂの始まりに思うこと、期待すること」について思うことを綴っていただく試みです。どんな切り口で語られていくのか、乞うご期待!

ほっちのロッヂの皆さま、オープンおめでとうございます!!
ほっちのロッヂのオープンは、私にとっても心から嬉しく、わくわくすることです。こうして、お祝いさせていただけて光栄です。

ケアをめぐる新しい哲学が始まる

どうして、ほっちのロッヂを一度訪れただけの看護学生の私が、オープンにこれほどわくわくするのか?それは、ほっちのロッヂは単なる「場所」や「事業」ではない、と感じているからです。おおげさかもしれませんが、「ケアをめぐる新しい哲学の始まり」のようなものだと思って、胸をふくらませているのです。

そんな、ケアをめぐる新しい哲学の魅力を学生の目線から描くことで、ほっちのロッヂの門出を祝うファンファーレとさせていただけたら嬉しいです。
学生の今だからこそ、感じられることもあったら良いなと思いながら、ケアの未来を考えてみます。

ケアの可能性は無限大?!

「新しい」とか「未来」とか言っていますが、私はまだ専門職としてケアを提供したことがありません。それでもなお、ケアをめぐって、たくさんのことを感じてきました。なぜなら、ケアは本来日常にひそんでいて、気づかないうちに誰しもが生活の中でケアの担い手となり受け手となりえるからです。ほっちのロッヂのしようとしていることも、このことと深く関わっているのではないでしょうか。

というわけで、まずは私について話すことから。
私は、東京大学で看護を専攻している大学3年生で、木田塔子と申します。看護師になる予定です。

私は、「ケア」に大きな可能性を感じて、看護の道に進むことをえらびました。社会的マイノリティの人々、すなわち、病いや障害・貧困・暴力・ジェンダーやセクシュアリティ・人種や国籍・年齢……など、さまざまな背景によって社会の周縁におかれた人たちが、
少しでも人とつながる嬉しさや温かさの感覚を多く味わったり、少しでも「生きててよかった」と思える瞬間が増えたりしたら。

こういう願いをもつなかで、「看護学は、目の前の人を『からだ-こころ-環境-生きがい』といった色々な側面からまるっとみて、その人との間に創造的な実践を生み出すことのできる学問だ」と感じて惹かれていきました。

看護にできることって何だろう

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ところが、授業や実習を通して「看護」が自分の中に染みこんでいけばいくほど、そもそも看護って何だっけ、看護師になったら何がしたいんだっけ、……と分からなくなることが増えました。

たとえば。
病院で出会った患者さん。外出許可が出た日、仕事に向かうべくスーツを着こなしたその方を見かけた時、私はハッとしました。「ああ、こんな人だって知らなかった。今まで私にとってこの人は、『パジャマを来た患者さんの1人』だったんだ。」

デイケアで出会ったおじいちゃん。スケジュールに従い皆でレクをするのですが、「くだらねぇ。」「俺はやらねぇ。」と輪に入りません。『めんどうな』おじいちゃんですが、魔の差した私は「この人、すげえマトモだなぁ。」とつい応援したくなりました。

末期で入院している方。命に関わる色々なリスクを抱えているので、リスクを管理するために、モニターをつけて、予防的に薬を飲んで、活動を制限せざるをえません。「これは『正しい』ことだ。」そう分かっていても、管理のもとで活気がなくなっていく姿をみると、私も苦しくなります。

病院には、病院の役目があります。命を守る。たくさんの人をみる。
言うまでもなく、重要で、カッコいいお仕事だと、心から思います。

しかし同時に、これだけでは足りない、と多くの人が感じているのではないでしょうか。
人が「患者」になった時、
人が好きなことを好きなようにできなくなった時、
人が何かを望むことや願うことが許されない状況になった時。
それは、その人とその家族の生活や人生にどう影響するのだろうか、ということを繊細に考える必要がありそうです。

「自分で決める」の積み重ねで豊かに暮らす

自分にとっての幸せって何だろう。
病気や障害など何らかの生きづらさがあろうと、「幸せになりたい」という生きるうえでの根本を、ど真ん中に、見据えることのできる場があったら素敵だと思いませんか。

ほっちのロッヂは、「弱いところ悪いところを見つける」医療ではなく、「その人の強みや繋がる力を引き出す」医療への転換を図っています。

ただ、「強み」とか「繋がる力」って、ある人たちにとっては口にするのも難しい言葉かもしれない、と思います。
病いそのものや、過去の深い傷つきや、そして場合によっては医療や福祉によって、あまりにも無力化されてしまった人たちがいます。

だからこそ、本当にささいなことから「自分で決める」ことの積み重ねで暮らしていく、というコンセプトが素敵だと感じるのです。
おいしいご飯を食べたいから来る。仲間と一緒に時間を過ごしたいから来る。好きな時間に来て、「今日は何がしたいのかな」とじっくり自分に問いかけてみる。

ほっちのロッヂには、このように「自分で決める」ことをひたむきに追求するムーブメントの先駆けとなってほしいです。

生活のなかにひそむ日常的でパワフルなケアたち

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もう1つ、ほっちのロッヂのケアの哲学の大事な柱がある、と感じます。
それは、生活者と生活者であること、に徹するということです。
ケアする人が「医師」「看護師」「介護士」である限り、ケアされる人は「病人」「要介護者」「障害者」であり続けます。
生活者同士として出会うこと、ケアが生活の中で循環すること。これらがなされないと、一方的にケアされる人は無力化される危険にさらされ続けます。

なにも、ケアを生み出そう、と身構えなくてもいいのだと思います。
ほっちのロッヂのオープンは、「工夫と感性をもって土壌をつくりさえすれば、日常のなかで豊かなケアが自然発生する」ことを確かめる大実験の始まりなのではないでしょうか。

その人らしく生きていくうえで、医療や福祉が提供できるケアはほんの一部です。思い返してみれば、私自身が生きることを力強く支えてくれた出来事たちは、日常のなかにありました。

幼いころ団地仲間で毎日遊んだ思い出。小学校の先生の「がんばりやさんだね」という承認。放課後に何時間もおしゃべりする友達の存在。友達が誕生日にくれる手紙の言葉。荒んでいた私を受け容れてくれた高校の先生の存在。……

日常の関わり、何気なく贈られた言葉、楽しいことや悲しいことの共有、など、生活することそのものが生活することを支えている気がします。
だから、そういう豊かな生活環境づくりに目を向けたら、たくさんのハッピーが生まれるのではないでしょうか。

ケアの文化クリエイター、ほっちのロッヂ

医療福祉とは関係のないところで、人々は日常的でささやかなケアのネットワークで互いを強力に支え合う可能性を持っています。
病気や障害の有無や年齢に関係なく、誰をもパワーレスにさせることなく、生活して、人とつながって、生きる糧を得ていく。
そういう哲学をもっているのがほっちのロッヂだと思います。

これからほっちのロッヂを訪れるひとりひとりにとって、そこで過ごす日常やふとした瞬間の言葉や出会いが、暮らすこと・生きることを、支え、導いてくれる。
そういう、さりげなくて温かいケアの文化が見出されていくことを願っています。

書き手:東京大学 医学部 健康総合科学科 看護科学専修3年 木田塔子