教えてあげなきゃ、理解してあげなきゃ、優しくしなきゃ、と言う使命感に支える側の人が囚われすぎていたりする。「つまらなさ」に耐え人を支えなければいけないという宿命を感じてしまうと思う。 つまらなさを作り出してるのは今まで構築してきた現場のシステムの設計やその中で生まれる人間関係の形成の偏りにある。 ほっちのロッヂにはこの偏りとは正反対、福祉やコミュニティが囚われている概念をバキバキに砕いてほしい。(デザイナー・アートディレクター Laila Cassim)
2020年4月から順に、ほっちのロッヂの全ての事業が始まります。
この #ほっちのロッヂの始まりファンファーレ202004 は、ほっちのロッヂメンバと普段関わりがあり、それでいて、持論がピリっとおありの方々に、「ほっちのロッヂの始まりに思うこと、期待すること」について思うことを綴っていただく試みです。どんな切り口で語られていくのか、乞うご期待!
はじめまして。ライラ・カセムです。普段は障害福祉の領域で現場の人たち普段出会わないクリエーターさんとをつなげ、一緒に様々な商品開発やプロジェクトを企画・実践しているデザイナーとアートディレクターです。
ほっちのロッヂに期待していることは「つまらなくならないところ」を作ること、です。
つまらなくならないところってなんだろう?一緒に日本で育ったニュージーランド人の幼馴染の元小学校講師のお母さんが言っていた言葉をふと思い出した。
「日本の子どもたちはこれからの人生における長時間のつまらなさに耐えられるように訓練されている」
これは一見ディスりと捉える人はいるかもしれない。でも実はそうじゃなくて彼女の言っていることはとても的を得ている。彼女が言っている「つまらなさ」とは何か?これは私の解釈でしかないけど大人の世界でいう世の中やその場の従いやシステムのことで日本はその「つまらなさ」に馴染み混み耐え抜く力を身につけている人が多い。そう友達のお母さんは言っていたと思う。
分野的にほっちのロッヂは「福祉」の現場と社会的にみられると思う。誰もが福祉と考えると「人に優しくする」「みんな一緒」「支え合い」「支援」「理解」などのこれまた”あたたかい”、”やさしい”ワードが出てくる。このような概念が現場の固定概念を作ってしまう。
だって人に優しくすることは誰だってわかってることだから。聞けば聞くほどつまらなく思えてくる。
私は上のような言葉や概念が、今の福祉や教育の現場を首を絞めていると思う。教えてあげなきゃ、理解してあげなきゃ、優しくしなきゃ、と言う使命感に支える側の人が囚われすぎていたりする。「つまらなさ」に耐え人を支えなければいけないという宿命を感じてしまうと思う。
じゃあそのつまらなさは言葉の本質を突いているかといえばそうじゃないし、人のせいって言ったら違う。つまらなさを作り出してるのは今まで構築してきた現場のシステムの設計やその中で生まれる人間関係の形成の偏りにあると思う。
ほっちのロッヂにはこの偏りとは正反対を行って、福祉やコミュニティが囚われている概念をバキバキに砕いてほしい。
私はデザイナーとして様々な障害福祉や教育支援の現場を見てきたが、福祉やサービスや教育など提供する側とされる側のアンバランスが結構多い気がする。
支えよう!と思って人を支える側は、支えることに必死になりすぎる。そして支えること=これっ!と思って教えてあげなきゃ、理解してあげなきゃ、優しくしなきゃ、と言う変な使命感を持って自分にプレッシャーをかけながら支えることになる。
そして支えられる人も、その支えが強ければ強いほど支えられることに慣れすぎてしまったり、または支えられすぎていることに劣等感を感じたり、イライラしたり反発したい気持ちを必死に抑えるか爆発させるか。結果的にどちら側の人間もいっぱいいっぱいになって疲れる。これは福祉だけでなく、家族やざまざまな現場での人間関係に言えることかもしれない。
また今世の中でよく見るのが「カテゴリーの中」での繋がりが多い。同じ趣味で繋がりやすい。共通点から見出す繋がりは共通点に執着し「私たち同じだね」と言う安心感は共有できる。じゃあその同じの先には何があるのか?共通点の先は何も生まれない。
例えばテレビでスポーツをあまり知らない人に野球選手同士の対談を見たいか?と聞けば大半は見ないという。でも例えば野球選手とマグロの漁師との対談と言ったらどうだろう?ちょっと興味湧いてくる。聞く人もそうだけど喋る本人たちも絶対楽しいし印象に残る。
大事なのは自分と違う視点や意見、佇まいや生き方をする人間に対して自分はどうリアクションしていくか。他人をつまらなく思っても面白く思っても、どっちでもいい。その先に自分がそう思うか?を考えられると、どんどん視野や感覚は広がって行くし、探究心もどんどん生まれてくる。そして他人との考え方や捉え方、視点の違いを「摩擦」していくと、どんどん自分自身の中にある面白さを発見できる。
ほっちのロッヂにはそんな〇〇 × △△の面白い「摩擦」の組み合わせをいっぱい作ってもらいたい。
2019年から関わっているTURNプロジェクトでは、アーティストが福祉施設や社会的支援を必要とする人のコミュニティにへ赴き様々な活動の場を展開しています。その中でもその「摩擦」を作るのに必要になって来るのが究極の「他人」の存在。
(写真は、TURNオフィシャルページより)
TURNでは、何かをやりたいコミュニティに対してどんな「他人」をいれたら面白い化学反応が起こるかを考え、現場とアーティストを組み合わせる。
例えば”ラッパー”と”都内のショートステイの施設”との交流。そこでラッパーは支援員とメンバーの日常をラップに仕上げ、それを支援員がラッパーになってパフォーマンスをする。「他人」の要素をぶち込むことで現場の人たちも自分の現場や仕事、自分自身を俯瞰し面白い気づきや発想が再び生まれてくる。
私自身も6年ほど前から知的障害をもつ成人の通所障害者福祉施設で、アートの時間を週1のペースでやっている。足立区綾瀬ににある少し中心部から離れた施設に、私のような保護者でも職員でもない究極の「他人」が入ることで、メンバーさんたちも普段職員には見せない一面が発見できたりする。そしてスタッフも一歩引いてメンバーを見ることができ、積極的に自分たちで自主的に新しい取り組みや商品のアイデアを出して来る。
つまり通常のお互いの役割やステータスを意識せず、他の要素を入れてぶち壊すことで今まで自分の周りに取り憑かれていた固定概念や変な社会的プレッシャーやしばりから生まれる「つまらなさ」から解放される 。
私は名前からも伺えるかもしれませんが、日本人の血は入っていません。両親は共に海外国籍。両親は日本で出会い、私は日本で子ども時代の大半を過ごしました。30年前は飛行機代も高いし国際電話も1週間に1回できるかできないか。ネットもない。異国の地で私の親は日々周りの「つまらなさ」を打破しようと、自分たちの家族ならぬ、いろいろ頼れる「他人」作ることに頑張って来ました。
母は地元の町内会の「みんな一緒にやる」ということ偏りと息苦しさに耐えられず、他の海外ルーツをもつ親子を繋げ、お互いの子供に英語を教えるグループを発足。
親は他人の子に英語を教え、知らぬ間に子供同士の友情と親の会のネットワークが生まれた。忙しい時に親はお互いの子供の面倒を見たり助け合ったり。その会は今でも続いています。
父は田舎町の役所の人と仲良くなり、田んぼをもらい、家族で毎週末のように通い週末農家をした。そこではガイジン家族と海外に行ったこともない農家のじいちゃんばあちゃんが私たちに農作業のコツを教えてくれたり、かつての私たちとは別世界を見せてきてくれる。そして私たちも同じく別世界を注入する。
私の子ども時代から自分の人生の中で、様々な他人がいたから自分がとらわれている「つまらなさ」に気づけたからこそ、どんどん自分にチャレンジを課して日々楽しんでいると思う。現在世界中のみんなが身体的に繋がれない今だからこそ他人の重大さに気づけるし、自分は世界とつながっていると思える。
人は凸凹である。でも「普通になりたい」と思う人も大半いる。その普通になりたいという思いは周りの環境が作り出している社会の固定概念やシステムの「つまらなさ」にとらわれすぎて居心地が悪かったり、悩んでいたりする。ほっちのロッヂではつまらなさをつまらなく思っていいと思えるきっかけを作り、その場にいる人一人一人が「大事な他人」に出会い自分の中に潜んでいる問い見つけ共に何かをシェアできる知の拠点をほっちのロッヂに作ってほしい。
ライラ・カセム
日本生まれ世界育ちのイギリス人。多人種、障がい者など、様々なアイデンティティーを持つことから自身を「一人国連」と呼ぶ。
「シブヤフォント」を始め、デザイナーとして自らのスキルを社会福祉の現場での専門性と掛け合わせ、障がいなどを持つアーティストの社会参加と経済自立を促すための商品開発やデザインプログラム・ワークショップの企画・運営などを国内外で行っている。
東京大学先端科学技術センターでは、「異才発掘プロジェクトROCKET」にも関わっている。2019年4月よりTURNのプロジェクトデザイナーを務める。
instagram:@laila.frances
HP:lailacassim.com